4. 日本拳法空手道の幕開け
昭和16(1941)年、本部朝基(71歳)は大道館を閉鎖し、沖縄へ帰った。帰郷を山田辰雄も送った。朝基は日本敗戦の前年(1944年)沖縄て74年の生涯を閉じる。
昭和20(1945)年、日本敗戦。この頃山田辰雄の妻、いわが死去している。
焼け野原となった東京て一家の地盤を築くため、2人の子供を妻の実家にあずけたまま山田辰雄は奔走。昭和26(1951)年に、東京・荻窪に柔道・接骨の看板をかかげ、家族を呼びよせた。
このとき、山田辰雄42歳、則行15歳、侃12歳。
昭和20(1945)年より、山田辰雄は日本大学歯学科空手部で、昭和22(1947)
年より日大理工学部空手部で、自らの空手を教え始めていた。当初は日本拳法研究会と名乗り、その後、名称を日本拳法空手道と改めた。
この頃、自宅には空手の看板をかかげていなかったため、外から見たのでは空手を教えているとはわからなかった。本当にやる気がある人にだけ教える、といった風だったという。
昭和30(1955)年頃、飯田橋に日本拳法空手道の道場が開かれる。巻きワラだけでなく、球形の大きなサンドバッグ、長く、周りに竹刀の竹を巻きつけたサンドバッグ、リングなどもある風変わりな道場だった。
サンドバッグは山田辰雄考案の手作りのもの、球形のバッグは、どのような角度からでも直角に打つ練習ができる利点があるもので、中には自転車チューブの製造過程でできる、ゴムチューブの切れ端が詰められていた。
山田辰雄は「ゴムチューブを詰めたときが一番人問の筋肉を打ったときの感触に似ている」と語っていたという。また、これらのバッグは、強打を養うのに必要な重さを得られる利点もあった。
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