3. 要人警護にあたった山田辰雄

昭和8(1933)年、28歳になった山田 辰雄は著名なボクサーだった荻野貞行、佐藤東洋とともに当時、商工大臣だった、後の中 島飛行機社長・中鳥知久平の身辺警護に当たるため、牛込町の中島邸につめるようになる 。

翌昭和9年には本部朝基(64歳)は東京に 大道館を開設したが、要人の警護の職につい た山田辰雄か道場を訪れるのは、年に1~2 回だったという。

昭和11(1934)年、山田辰雄はやはり 中島知久平の警護のため、群馬県大田市の中島飛行機大田工場に勤務。昭和10年には長 男・則行、14年には次男の侃が生まれたが、 妻子を妻の実家がある足利市に残しての勤務 だった。

  当時、要人の警護といえば、時には拳銃を も相手にしなければならない危険な任務である。実際に刃物傷や、拳銃弾が貫通した傷を 山田辰雄は負っていた。

  このような職についた理由を山田辰雄の弟子・萩原茂久氏はこう推察する。 「普通の生活をしていては、命がけの戦いをするなんてことは、そうあることじゃない。 そうした戦いの場数を踏んだ人は強い。競技の強さではなく、武術的な強さですね。先生はよく、合戦という言葉で表現されていたけ れど、そういう武術的な強さを得られる戦い の場数を踏める世界というのは限られています。先生は自らの修行のためにあえて、そう した世界に飛び込まれたのだと私は思います。」

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