1. 空手史から抹殺された実戦空手の系譜
「空手史から抹殺された実戦空手の系譜」
大正14年(1925年)、琉球空手が日本で一躍脚光を浴びるきっかけとなる記事が当時の大衆雑誌キングに掲載された。
それは、大正11(1922)年11月に京都市て催されたボクシング対柔道の試合を組んだ興行でのこと。50歳を越えた163㎝ほどの空手(当時は唐手という字を使っていた)家が、長身の外人重量級ボクサーと飛び入りで対戦し、2Rに平手突きの一撃で見事にK0した驚ぐべき事実を読み物風に紹介したものだった.。(注、本部朝基は実際には167~8㎝あり、当時としてはむしろ大きい方で、5尺4寸5分・165cm山田辰雄よりわずかに背が高かった)。
空手家の名は本部朝基(1870-1944)。多くの実戦により、その名を高めた伝説的な拳豪である。当時、朝基52歳。同じ大正11年に船越義珍が講道館で唐手術を初めて公開しているが、それは一人でやる型を紹介したにすぎなかった。現実に空手家が闘うところを見せたのは本部朝墓か初めてであった。
日本の実戦空手史を解く上で、この本部朝基から、朝基の高弟で後に日本拳法空手道を起した山田辰雄(1905~1967)に続く系譜は欠くことができない。山田辰雄について言えば、戦後のフルコンタクト(当てる)空手、さらには、キックボクシングの萌芽にも大きな影響を与えたキーパーソンなのである。
が、今まで、空手史の中で山田辰雄の名が多く語られることはなかった。また本部朝基については、"日本語がよくわからぬほど無教養で粗野”"本部朝基の技は一代芸で、その後、朝基の空手の命脈は途絶えた”などと、不正確、あるいは全く誤った記述がなされることが多かった(現在、売られている本の中にもある)。
それはなぜか?
「その謎を解くヒントとなる不可解な点が、大正14年のキング誌の記事の中にすでにある」
と指摘するのは、山田辰雄の弟子の1人で空手史研究家でもある小沼保氏。
「キング」誌の記事の挿し絵が実際に戦った本部朝基ではなく、船越義珍に変えられているとい一つのである。さらに、この唐手対ボクシングの試合に関係ないはずの船越の顔写真が本部朝基と並べて掲載されており、記事の終わりも、朝基の試合ではなく、船越義珍の先輩・鉢峯という人が、野牛を拳の一撃で殺し
てしまったとの逸話で締めくくられている。
確かに、不可解な記事ではある。
これが意図的なものであったかは不明だが、「空手に先手なし」と言って体育化を押し進めた船越の弟子たちか、大学空手部などを通し組織を拡大し、スポーツ化を押し進めてゆく中で、あくまで実戦性を追求した本部、そして山田辰雄の名が歴史の裏舞台へ追いやられていったのは事実だ。
今こそ、空手史から抹殺された実戦空手史の空白部を明らかにしたい。
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